廣島スタイロ

繋がる空

Uluru廣中 祐二ownerNo. 32

江戸時代の頃より、京都から九州までを繋いできた西国街道。そんな歴史的に重要な道は今、広島の平和公園の真ん中を東西に突き抜け中心街で働く人々の通勤路として重宝されている。街の方から平和公園の緑の中を西に抜けて、二つ目の交差点の角に「Uluru」はある。いつも優しい光と人の楽しげな会話が通りに溢れ、そんなお店にはついつい寄り道したくなってしまう魅力がある。取材の日にUluruへ向かうと仕事を終えたばかりの廣中さんが笑顔で出迎えてくれた。「どうしようか?そこの公園で話す?」と僕等を公園へと連れ出し、地元の小学生におっぱい山と呼ばれるコンクリートで造られた高台に登り、そのテッペンで秋の始まりを告げる虫の音をBGMに、昔から知っている気心の知れた友人のように輪になって座り、缶ビールを開け、そして落ち着いたトーンの優しい声色で廣中さんはゆっくりと話を始めた。

Uluruという空を介して人と物が出逢い、僕も繋がらせてもらっている

好きな色は、いろんな色が混ざっている白っぽい青というか淡い感じです。子供の頃から空を見るのが好きで、今でもUluruの屋上からよく見てるんです。料理との出逢いははっきり覚えています。うちは男四人兄弟なんだけど、小学生の頃に2つ上の兄貴と家で留守番をしていたんです。その時に何故かトマトコロッケを作ってみようって思ったんです。というのも、うちの親父が料理好きで愛読書がクッキングパパだったんです(笑)。小学生の自分にも漫画で読み易いし、ちゃんとレシピも詳しく載っていたので、よく読んでいて。その漫画の中にトマトコロッケっていうのがあって、「これ食べてみたい!作ってみよ」ってその時に思ったんです。そこでスーパーで材料を揃えて、一人で家の台所をグチャグチャにしながら何とか完成はしたのだけど、衣も上手くつかない感じで(笑)。でもその初めて作ったコロッケを食べた兄貴が「美味い」って言ってくれてそれが凄く嬉しかったというのを今だに覚えているんです。

料理を仕事にしたいって思ったのは、中学生の時にテレビで同い年の子が単身オーストリアのウィーンに渡って、お菓子の修行をしているってドキュメンタリーをやっていて、それをみた瞬間「同い年なのにカッコイイなぁ。あ、俺はこれだ!パティシエになる!」って思って。周りの誰にも言ってはいなかったんだけど、自分の中ではそう決めていました。ただ中学三年生の時に「自分は中学を卒業したらウィーンに行ってパティシエになる」って話を親にしたら、流石に「アホかお前は。高校くらいは出とけ」と止められてしまって(笑)。

高校を卒業する時も、大学に進学する気は無かったんですが、親としては大学には行って欲しかったみたいで。親父は高校卒業してからずっと日本製紙っていう会社に勤めていたので「俺のツテで会社に入れ」って言われていたんだけど、「絶対サラリーマンなんか嫌だ」って言い返してたら、親父に「お前になんか絶対料理の世界が務まる訳がない!」って言われたんです。それで自分もカチンときて「やってみんとわからんだろうが!」ってそこで大喧嘩になったんです。最終的に親に「大学に行かせるくらいの蓄えはあるから、しょうがないから料理学校だけはでとけ」って提案されて、大阪にある辻学園に入学したんです。

辻学園を卒業してからは、北浜にあったフレンチのレストランに就職したんです。そこがめちゃくちゃ厳しいところで、正直逃げ出したいって思った事も何度かあったんですが、「お前なんかに出来るわけない」って言われた親父のあの言葉のおかげで乗り切りました。親父はもう今は亡くなってるんですが、その言葉は親父との約束だと思ってるんで、ずっと料理を諦めない為の原動力になってます。未だに「一人前になる」っていう約束はまだ果たせていないなって思っています。

親父が病気になり、5年間勤めた北浜のお店を辞めて広島に戻る事になるんですが、北浜のお店で、将来的にお店をやるならサービスもやったほうがいいって教えてくれた方がいて。その方が紹介してくれたのが、広島の「リストランテ マリオ」だったんです。

リストランテマリオは当時マリオ系列の中でもサービス力の高さを売りにしていたお店だったので、凄く勉強になったし、サービスの面白さを教わりました。そこで出逢った山本さん(現ル・トルヴェールオーナー)は、波動が合うというか、お互いの見ていることや考えていることが分かって、一緒に働いていて楽しかったです。今でも仲良くさせていただいています。

その後、ホテルで働いている時に、みんながソムリエ試験を受けに行っていて、「お前も受けに行くだろ?」って言われたんですが、ワイン作りの現場も知らないのに、資格だけ取ってお客さんにワインの事を語り提供することに違和感を感じたんです。

それで、大阪の寮時代の友人で松江でフレンチのレストランをやっている原くんに相談したところ、奥出雲に有機でやられてるワイナリーがあるから、そこだったらいいんじゃないって言われて。最初は断られたんだけど、熱意を伝えているうちに、住み込みで一年間って約束で働かせてもらえることになったんです。

最初は田舎の生活リズムに慣れませんでした。田舎には、いくら忙しかろうがお客さんが来ていようが、10時、12時、15時には絶対お茶の時間があるんです。今までサービス業をやっていてお客さんを放っておいてお茶をするなんてとんでもないことだし、そういうリズムの違いには驚きましたね(笑)。助け合いが軸の生活。そういう当たり前の繋がりの大事さと生産者さんて凄いなって事を学びました。

23年間、色んな場所で働かせてもらいました。独立前に最後に働かせてもらったのが上八丁堀にあるワインの立ち飲みが出来るハナワイン。最初はハナワインに骨を埋めても良いなと思ってたんです。ワインは凄く好きだったし、ハナワインで働くことにやり甲斐も感じていて。ただ働いている中で、自分なりに伝えたい事と発信したい想いが生まれてきて。その時に独立したいと思ったんです。やっと自分の考えがまとまった感じですね。

今の場所にUluruをオープンしたのは、若い時に半年間バックパックでヨーロッパを廻った体験が大きかったと思います。初めての海外であり得ない程の人の優しさに触れて、いっぱい助けてもらったんです。この場所だったら平和公園も近くて、旅行者も多いから、独立するんだったらこういう場所で海外から来た旅行者の人たちに、自分が海外で受けた恩を返す事が出来るなって思ったんです。

朝からワインが飲めるお店にしようと思ったのは、自分は「固定概念」って言葉が凄く嫌いで。今まで飲食店で働いてきた中で、普通は夜からお酒を飲むというのが当たり前で、昼から飲んじゃダメって風潮が多少なりあるじゃないですか。誰が決めたわけでもないのに勿体無いなという想いがあって。それで好きな時に自由に飲めるお店にしようと思ったんです。昼からだとなんか中途半端なので、朝9時から開けて思いっきりワインが飲めるお店にしちゃえばいいって。最初は同業者の方に「朝からお客さん来るわけないよ」って散々言われました(笑)。

「Uluru」という場所はお店というか生き物みたいな感じで、「このお店はどう成長して行くのかな?」って客観的に見ています。自分の中では単なる飲食店ではなくて、コミュニティの場でもあるし、ここで物や人との色んな出逢いがあって、そこから何かが生まれる。そんな表現が出来ればいいかなって思っています。あとは生産者がいないと自分たちはやっていけないし、その人達を大事にしたいという想いは常にあります。

今回、コロナが起きて、みんな自粛に入って「何が大事なのか?どうやって生きていくのか?」という事を考え出した時期だと思うんです。

自分もそれで先ずは顧客と目線を合わそうと思ったんです。もちろんUluruも継続してやっていかないといけないし、そうなった時に「毎日何を食べたいんだろう?」って考えたんです。肉や魚を毎日食べて生きたいわけでもないし。そこで「あ、野菜だ。野菜は毎日食べたいし食べれる」って思った時に「サラダだな」って思ったんです。そこで180度自分の中では営業スタイルを変えて「Salad Uluru」として、シンプルに分かりやすく、名前も変えて新しいお店を始める気持ちで始めたんです。

冒頭でもよく空を見るのが好きだって言ったと思うんですけど、Uluruの屋上から見る空が好きで。毎月、満月の日に「満月ワインバー」というイベントをお店でやっています。全国の色んなお店でも「満月ワインバー」は行われていて、自分は一人でこの場所でやっているんだけど、空は繋がっていてみんなが同じ想いでやってるんだろうなって考えると全然寂しくもないんです。この場所でお店をやっていてよくお客様から「人を繋げているお店だよね」って言っていただくことがあるんですが、最近は「Uluru」という空を介して皆んなが自分と繋げてくれている、そう思います。

取材後記

廣中さんに店名の由来を尋ねた時に、「Uluruという言葉には、中心とかおへそっていう意味があって、自分がお店を持って何をしたいかを考えた時に、ここを中心に自分のやりたい事を発信できればと思って名前を付けたんです」と言われていて。「食事」というのは毎日必ずあって、一番簡単に喜びや学びが得られて、幸せになれるものだと思うんです。廣中さんの「発信したい」という言葉にも現れていると思うんですが、その毎日、必ずある日常としての「食」を丁寧に表現されている印象が強くて。生産者と消費者という元々は近しい関係性だったものが、スーパーマーケットやオンラインショップの台頭でそこに在った温度や対話そして鮮度が失われていく中、Uluruを通して生産者さんとお客さんだったり、器の作家さんとお客さんだったりを繋げ、丁寧に想いを伝えられている。気付きや喜びは身近な生活の中にこそあって、このコロナ禍に於いてもその姿勢を崩さず「普段通り」をどうやったら提供できるんだろう?という事を考えられている姿がかっこ良いなと思いました。そしてコロナ禍に於いて、「お酒」や「飲食店」ばかりが悪のように扱われていましたが、Uluruに久しぶりに訪れると、お酒がある場所特有の心地よい空気に包まれていて、やっぱりお酒がある風景っていいなって再確認できました。

Profile 廣中 祐二 広島県広島市出身。幼少期より、父親の愛読する「クッキングパパ」の影響や、母親の料理のお手伝いをするのが好きで、料理に関心を持つ。中学の時に見たドキュメンタリー番組で、同級生の男の子が単身ウィーンに渡りパティシエの修行をする映像を見て、自分もパティシエになりたいと志す。高校卒業後、大阪の辻学園調理・製菓専門学校へ進学。卒業後は北浜にあるフレンチへと就職する。父親が病気を患った事をきっかけに退職し、地元広島に戻り、リストランテマリオに就職。その後、奥出雲ワイナリーに1年間住み込みで働き、上八丁掘にあるハナワインで7年勤め、独立。固定概念に捕らわれず、自由に好きな時間にお酒を飲んで欲しいという想いから、朝の9時からオープンする型にはまらないお店、「Uluru」をオープン。人とモノや人と人が自然に繋がり、生産者こそが日の目を浴びるべきだと考え、想いを丁寧にお皿に乗せて提供している。お店の中に新しく「Salad Uluru」をオープンさせるなど新しい挑戦を続けている。