廣島スタイロ

エイジングレー

べっぴん店渡部 大輔取締役部長(バイヤー兼マネージャー)No. 25

広島で生まれ育った人なら誰もが歩いたことがあるだろう、メインストリート「本通り」。その本通商店街にあって広島の歴史をこの場で見続けてきた創業127年のお店「BEPPIN-TEN」。その代々紡がれてきた歴史のバトンを受け取ろうとしているのは、現社長の息子である渡部大輔さん。若い頃は遊び場、そして今は仕事の場としてこの場所を見続けてきた渡部さんは、「昔に比べて本通りが通路化しているのが悔しい」と言います。お店の外でも仲間達と様々なイベントを開催し、その収益を本通りのクリーンナップ活動の資金に充てたり等、様々な活動をしてきました。そして今からは新しい事を生み出す事ばかりが大事ではなく、今まであった歴史に目を向けて、そこから今の時代に合った色を抽出して、お客さんやこの街に提案していくのが自分の仕事なんだと言います。コロナ禍という状況に置かれた今、商売人として、そして会社の歴史を紡ぐ担い手として「これから」をどう考えているのか。普段は外部の人が立ち入ることが出来ないBEPPIN-TENの屋上に出ると、目の前にズドンと現れる本通り商店街のアーケード。いつもとは違う距離と角度から見るその裏の顔は、表の煌びやかな印象とは違い、威厳すら漂う歴史の重みを感じさせる表情をしていました。渡部さんは優しい眼差しで「そんな経年変化したアーケードの色が好きなんです。」そう言って話をしてくれました。

長い歴史の中で、元々あった事にきちんと目を向けていく

僕は小学生から中学生まで、宇品で暮らし、高校生から袋町で暮らしているんです。当時の街は全てが刺激的で、今よりも情報を得る手段が圧倒的に少ない時代だったので、ストリートで格好良かった先輩から話を聞いたりと、我先に情報を得る為にアンテナを尖らせていました。とにかく音楽にスケボーにファッション、バイクにローライダー。色んな事に影響を受け、常に街に身を置いて、ごった煮なカルチャーの中を横断していました。

高校の時にバイクにハマり、毎夜バイクで色んな処に繰り出していたら留年してしまったんです。それで高校を中退する事になり、勝手に高校を辞めた事に対して父親にめちゃくちゃ怒られ、「もう金は出さない。自分で働いてやりくりしろ」と言われてしまって。その時は流石に「これは不味いことになったぞ」と思いましたね (笑)。ドロップアウト組には土建業が当たり前だったので、17歳から22歳まで鳶職をし、バリバリの男社会で最初は怒られてばかり。悔しさをバネに食らいついていくという毎日だったのですが、身体を動かし、汗をかくので、水も飯も美味くて、充実した生活を送っていたんです。鳶職を5年もやっていると、「独立しないか?」という話もいただいたり、給料も花形で「2〜3日に1回、必要な時に呼んでください」なんて自由な働き方も確立していて。そんな働き方もいいなと思っていた時期もあったのですが、ふと「自分が40歳になった時に、同じように働けるのか?先はあるのか?」と将来の事を考えるようになって。

その頃に、父親に「お前は将来何がしたいのか?」と聞かれた事があって。それで東京に出て洋服がしたいという話をしたことがあったんです。父親がべっぴん店を経営していることもあり、「知り合いに東京の洋服のブランドで人を探しているから紹介出来るよ」という機会をもらったんですが、その話はタイミングが合わず。そこで父親に「服じゃなくて鞄の方にもツテがあるから紹介できる、やってみるか?」という提案をされて。父親から紹介された鞄のブランドの話だったので、「べっぴん店にいつか戻る覚悟がないのならこの話は受けてはいけない」と感じました。色々と悩んだのですが、その鞄のブランドを紹介してもらい、東京に行く事を決断したんです。そこがターニングポイントだったと思います。

東京の浅草にあるbagメーカー「BEAUDESSIN/ボーデッサン」に入社し、4年間生産現場や販売など、鞄作りの背景を学びました。最初に「販売と工房のどちらをやりたいのか?」と聞かれ、物を作るのが好きだったので迷わず生産過程をやりたいと工房に入ったんです。ただ一年目は簡単な工程しか触らせてもらえず、2年目からはミシンを触らせてもらえるようになったのですが、1mm単位での精度が求められる世界なので、高い技術が必要な箇所は任せてもらえませんでした。その時に職人さんの世界をこの目で見る事が出来た事が、今でも販売やセレクトをする上で凄く活きています。その後、販売の方に移ってから銀座にお店を作るというプロジェクトがあり、その立ち上げに関わらせていただいたんです。立上げを終えた頃に父親にそろそろべっぴん店に帰ってこいと言われたのが26歳の時です。

元々べっぴん店はコスメと和装雑貨でスタートした創業127年の会社です。創業当時は「渡部べっぴん店」という名前で、今のようなパッケージ商品ではなく、樽に入った石鹸水を量り売りしたり、和装小物の巾着やかんざしを売っていました。化粧品をメインに展開してきたんですが、先代と父親たちが鞄の視野を耕し続けたんです。その培ってきた事に対しての結果として、鞄の表現としては店の大きさも物量も他店と比べても類を見ないお店になり、今では鞄のお店というイメージを持っていただくことが強くなりました。ただ、今の時代は物のコンパクト化が進むに連れて、人が鞄を持たなくなってきているという背景があります。だからそこに限界も感じていて。

うちの祖母は80歳までお店に立っていた人で、「BEPPIN-TEN」の名物的な存在だったんです。今もお店に立っていると祖母のことを話されるお客さんがいて。その頃のお店を祖母が支えていたのだという事を感じているんです。それが頭に残っているという事もあり、更にこのお店が成長していく為には父親が培ってきたものにプラスして、昔あった歴史にも目を向けて「女性が輝ける世界」を作る事をテーマに考えているんです。ただ女性が生き生きと暮らし、働ける環境をつくるのは、自分の力だけでは難しく、今はお店を嫁にも手伝ってもらっています。男性にとって「女性」というのは永遠の課題ですよね(笑)。

今年の7月にコンビニの袋が有料化されるという流れの中で、広島の鞄屋として何かを提案したいという議題が会社内で上がって。そこで、コロナ禍で世界中が様々な変化に追われ困窮している昨今、「もったいない」と「楽しい」をテーマに、光に反射するときらっと光るシルバー色に変化する素材を使い、お手持ちのモバイルで撮影すると面白い写真が撮れ、色々な「楽しい」が撮れるのが特徴のコンパクトバッグを企画しました。本体中央にジョンレノンの名曲「POWER TO THE PEOPLE」という文字を印字しています。ジョンレノンの名曲をインスパイアし、コロナ渦の状況を人々の力で楽しく乗り切ろうというメッセージを込めているんです。その下には、日本の鞄作りを支える浅草をキーワードに「made in downtown tokyo」という印刷を取り入れています。その背景には、自分が職人の世界に触れた経験から、今まで「made in japan」というざっくりとした表記に違和感を覚えていたからなんです。眼鏡は鯖江があって、金物は燕三条があるように、作り手の思いや歴史がプロダクトにはあるので、販売する側として、「もっと背景を伝えていけるようにならないといけないな」という思いがあって表記しています。

コロナ渦で、世の中では様々な考え方の違いが生まれました。自分達は商売人である以上お店は開けないといけないというマインドがあるし、コロナを広めてはいけないという責任もあると思います。けれど誰かの為に在る事が価値だと思うので、閉めるのも開けるのも正解だとは思うんです。今の状況と向き合う中で何が正解なのかわかりにくいのですが、目の前にあることをしっかりやりながら、前を向いていかなければならないと思っています。


お店以外の活動として、本通り商店街振興組合青年部の副会長をやらせていただいています。本通りという通りをこの場所で商売をしながら毎日見つめていると、昔に比べて本通りが「通路化している」という悔しさがあるんです。僕が子供の頃の「えびす講」というお祭りは、カープが優勝した時くらい人が集まり賑わっていて。元々、商売の神様のお祭りなので、大蔵ざらいという、お客様の一年間のご奉仕として商品をお安くしますよ、という本通りにあるお店のセールの在り方だったんです。だからお客さまも物を買うぞという熱気で溢れ、当時は本通りのお祭りだったんです。それが今では祭のメインは中央通りになり、テキ屋さんのイベントになってしまっていて。遊びに来る人も「えびす講」という名前に集まっていて、何が趣旨のお祭りなのかが見え辛くなっているのが残念なんです。そういった観点からも、昔賑わっていた頃の本通りの歴史にもしっかりと目を向けて、これから組合として本通りを盛り上げる自主企画のイベントを考えていきたいなと思っています。

僕の原風景は、やはり今も見続けている本通り。商売の原点にある自分達の考え方は、時代に合わせて自分たちも変化していき、お客さまに提案していくというスタイル。本通りのアーケードは元々、白だったと思うのですが、時代と共にエイジングされてグレーになっている。僕もこの色だと決め打ちしたくはなくて。時代に合わせて白にでも黒にでもなれる、グレーのような存在でありたいと思うんです。自分が職人だったならそうではいけないと思うんですが、自分のベースが商人だというのが東京時代に職人の世界を目の当たりにして早い段階でわかったんです。職人の仕事に対してリスペクトがあるので、自分は物が作られていく背景や職人さんが言葉にできない部分を言葉にするのが仕事だと思っていて。それが職人と商人の本当のコミュニケーションの在り方だと思ってるんです。

今まで色んな事をやってきましたが、べっぴん店という家業の元に運良く生まれて、それを生かすも殺すも自分次第だと思っていて。元々あったものにきちんと向き合いながら、在る物の中で自分がソフトになってやっていきたいんです。結局、長い歴史がある中で盛り上がった時に誰がやっていたのか?「あの時は盛り上がっていたよね」という時のチームの中に自分の名前が残っているようにこれからも頑張っていきたいです。

取材後記

歴史のある家業を継ぐということを自分は経験した事がないので想像で語ることしかできないのですが、その大変さは想像を絶するモノだと思います。伝統を壊してはいけないという思いと自分の代の中で新しく何かを打ち出さなければいけないという思いの間で動かなければならないプレッシャー。それが創業127年のお店なら尚更だと思います。そんな中で渡部さんは昔の歴史に目を向けながら、お店に留まらず「本通り」という地域にもしっかりと向き合っていて。今ある問題を今の時代に照らし合わせ、それを昔在った歴史や文化と比較して、先ずは自分たちが変化していく事によって、それを今の人達に提案しようと勤めている。「時代によって白にでも黒にでもなれる」。変化していくという事は、「自分の色を打ち出していく」という作業よりもとても難しい事だと思います。「誰かの為に在ることが価値」という黒子的な立場で冷静に「今」を見据えて色々な物事に取り組む彼の態度からは、これからの「BEPPIN-TEN」や本通りに新しい歴史を刻んでいくんだという強い覚悟を感じました。

Profile 渡部 大輔 広島市中区本通生まれ。中学時代にバンドを結成し音楽と戯れる。その後高校を中退し、15歳から建築の道で7年間職人の世界を学ぶ。その後、家業のべっぴん店の取引先である、浅草にあるbagメーカーBEAUDESSIN/ボーデッサンにて4年間生産現場や販売など鞄作りの背景を学び、現在のべっぴん店に26歳で入社。現在はバイヤー兼マネージャー。セレクトするという観点からDJやイベントなども企画して広島を楽しんでいる。