廣島スタイロ

繋がり、継ぐ紺

旭鳳酒造株式会社濱村 洋平旭鳳酒造7代目蔵元兼杜氏No. 21

二本の川と山間に囲まれた自然の豊かな可部町。元々、宿場町として栄えていたこの街に1865年創業の歴史ある酒蔵、旭鳳酒造はあります。太田川と根の谷川の両水系から恵まれる酒造用地下水と近郷産の良質な原料米により、蔵独特の味を伝統とし、今日に至るまで代々受け継がれてきました。今回お話を伺ったのは、7代目蔵元であり、日本酒製造の責任者である杜氏も務められている濱村洋平さん。酒造りをするきっかけになったのは先代の蔵元であったお父さんの死だったと言います。生まれ育った街で、何代も前から続くお酒造りのバトンを受け取ったのは、洋平さんがまだ二十代も半ばの頃。そんな境遇に立たされながらも懸命に酒蔵の運営とお酒造りに取り組まれてきた、そのお酒と瓶に込められた酒蔵や、街、そこに住む人に対しての想いを伺ってきました。

親父が繋いでくれた縁と、可部に繋いでもらった歴史と想いを瓶に詰めて

今は蔵元と杜氏をしていますが、僕の親父は、板前をやったり、ショップを経営したりと色んな仕事を経験して家業である酒蔵に戻ってきたという背景があったので、親父からは「お前は自分の好きなことせぇ」と言われて育てられてきました。だから「家業を継がなければならない」というプレッシャーはなく、すぐに継ぐとは考えていなかったんです。

大学進学を機に家は出ていたので、やりたい事は何だろうという事は常に考えていて。しかし、大学四年の時に、「やっぱり蔵に戻りたいな」って思いました。

旭鳳がお世話になっている取引先様から「修行のような形で就職してみないか?」とのお話しも頂いたんですが、親父の体調面も気がかりだったので、なるべく社内で一緒に動ける時間を作りたいと思い家業へ戻ることを決意しました。

仕事を始めてみて、実際にお客様の前で旭鳳のお酒をご説明して、皆様に飲んで頂いた時に、自分の蔵のお酒を「これ美味しいね」とか、直に感想を言って頂けた時は凄く嬉しかったですし、酒造りに関係する、瓶詰めから配達までの一つ一つの工程が、最終的に飲み手の方に楽しく美味しく呑んでもらう為に大切だと感じました。だから、全ての作業で手は抜けないなという思いは常にあるんです。


僕が考える「お酒の役割」。それは、場が和み、人と人とのコミュニケーションが深くなったり、料理が美味しくなったり。その空間作りというのが「お酒の役割」だと思っています。「お酒というのは趣向品じゃないですか」。飲まなくても生活は出来るものなので、「生活において、色付けをしてくれる役割」の物の一つだと思います。

今は9年目になります。七代目に就任したのが26歳の時で、杜氏になったのが27歳の時です。正式調べではないですけど、僕の歳くらい若い人で代表と杜氏を兼務している人は全国的に見てもいなかったという印象です(笑)。

うちは歴代、代表が杜氏をやっているという歴史はなくて、僕が初めてだったんです。親父もそうだったので、その親父像が色濃くあって。自分も全く酒造りをする気は無かったんです。

きっかけになったのは親父が亡くなった時。葬式の日に「親父の為に酒を一本造りたい」って、何故かそう思い立ったんです。葬式当日だったんですけど、その日にその時の杜氏に「親父の為に酒を一本造りたいんで、一から酒造りを教えてください」って言っていました。

親父が亡くなったのが夏だったんですけど、その年の秋からお酒造りが始まりました。その時に、自分で色々考えて、初めて一本造ったんです。

どんなお酒を造ろうかと考えた時に、まず悩んだのは原料です。お米を何にするか?酵母を何にするか?

お米をうちはずっと広島県産のお米でやらせて頂いているので、八反錦というお米にして。酵母をどうしようかって考えた時に、僕が好きな酵母があったんです。他のお蔵さんが使っていた酵母で、全国で流通している酵母。それを使おうと杜氏に相談したら、「お前そこはKB酵母だろ」って一蹴されました。

「KB酵母」というのは親父も開発に携わった酵母で、可部のイニシャルをとって「KB」という名前なのですが、その当時、親父とタッグを組んでいた杜氏もずっと使っていた酵母だったんです。

割と親父は酒造りに関しては余り口を出さずに、杜氏に対して自分が納得する酒を造れという人でした。杜氏ごとに個性が違うので、杜氏が変われば味も変わっていて。旭鳳の味というのはブレていたと思うんです。杜氏が変わるたびに他の酵母を使ったりと、その色は次第に薄れていった。そんな背景もあり、旭鳳らしさや、親父らしさを形にするなら「KB酵母だろ」と言われ、「確かに」ってなりました。

また、旭鳳というお酒の基本の軸を造りたかったというのはあります。KB酵母の特性でもあるんですけど、口の中で少し漂って「あぁ、美味いなぁ」って柔らかい旨味と余韻があって、料理と一緒にゆっくり飲めるお酒。飲む時に緊張して欲しくないんです。そこを意識してお酒を造りました。

親父の話になるんですが、親父は酒蔵を継ぐ気は無かったんだと思います。祖父が急死して、急遽戻ったような感じだったので、業界も知らないし、初めはとても大変だったと母から聞いています。自分が苦労した分、人付き合いは親父から凄く教わりました。人との関係を築いてくれたというのは親父の財産だと思っていて。親父が繋いでもらったご縁というのは凄く多くて、感謝しています。家では呑んだくれて管を巻いていたような人でしたけどね(笑)。

150年も蔵の歴史が続いてきたのは、可部という街、そしてこの地域の方々に支えて頂いたおかげなんです。お酒を造るにあたって必要なお水だって、可部の水。可部という街に「ありがたい」という思いが強くて。今、可部は飲食店主さんを中心に、街を盛り立ていく動きがあるんです。その動きの中で、JR可部駅東側通りに「噂(うわさ)通り」という名前が付いたんです。自分たちの街を自分たちの手で、「噂通りに楽しい街へ」。

可部という街は住所で言えば広島市なのですが、広島市の中心からすると郊外に位置していて、川もあり、山もあり、自然が豊かな街で。会社の目標としては、この街と一緒に、階段を登るように一歩一歩進んでいく。お酒と一緒に可部の魅力を伝えて、可部に人を呼べる企業になりたいと思っています。

可部の好きな景色。遠出して可部に帰ってくる時に、太田川橋から見える可部の街の灯りを見ると、そこにはなんだか可部らしい優しさが表れていて、ほっとするんです。

周りの友達は県外に出ている人が多いんですが、お土産で、お酒を買いに来てくれるんです。僕は、変わらず可部にいて、地元に彼らが帰って来た時に、旭鳳に寄ったら「おかえり」って言えるのが、最近、嬉しいんです。だからここが自分の原風景であり、酒蔵が可部の原風景の一部になれたらって思いがあります。

僕が杜氏になってお酒を造りを始めてからは、味で色を考えています。味が伝わるような色を意識してラベルを考えているんです。旭鳳の色というと、「紺」や「黒」だと思います。一色でというよりは、色んな色が組み合わさって生まれる色。僕個人としても好きな深みのある紺色。歴史が培って来た紺色。先祖代々が繋いで頂いたものを大切に、周りの地元の方に飲んでもらってこその酒蔵だと思うので。

可部でずっとやらさせていただいたという意識や、歴史を大切にしたい。酒米農家さんの想いも、可部の人の想いも。想いを知った上だと、一個想いが乗る。酒を造る上で「想い」は大事です。これからももっと可部らしさ、旭鳳らしさを突き詰めてお酒を造っていきたいと思います。

取材後記

お酒造りというのは、まず「水」が大切だという事がお話を伺って、感じました。普段、皆さんはどれくらい水を意識して生活していますか? 先日、仕事で九州の方へ行く機会があったのですが、そこで生活されている方や、飲食店の方の多くが地元の水源に水を汲みに行き、料理や飲み水として活用されていました。生活の中に自然とその土地の「水」が溶け込んでいる様は、昔の日本からすると当たり前のことだったと思うのですが、今はその土着性という文化が失われつつあるように思います。可部という街は二本の川と山間に囲まれており、豊かな水源に恵まれ、また川が交通の要衝として、人や物を運び、宿場町として栄えたという歴史があります。濱村洋平さんはその土地の恵みと街の歴史に目を向け、そんな想いが酒造りには欠かせないと仰っていました。酒造りに欠かせない菌もまた生き物。想いが反映されるというのは素敵な考え方だなと思いました。今、ウィルスで世界中が大変な事態になっていますが、一つの自然現象と受け止め、自分が何処に立っていて、何で育まれてきたのか。そんな土地に眼をむけるタイミングなのかもしれません。

Profile 濱村 洋平 広島市安佐北区可部生まれ。2012年に広島修道大学卒業後、実家の家業である、旭鳳酒造株式会社に入社。2015年に7代目代表取締役就任。父親の死後、「親父の為に酒を一本造りたい」と思い、2016年に杜氏に就任する。旭鳳酒造は地元である可部を盛り上げていきたいという想いから、「噂通りの会」を地元の飲食店主や老舗の方々と結成。また、可部の大林という地区の災害で耕作放棄地となった棚田を復活させるプロジェクトに参加。自らも米作りに参加し、本年度よりそのお米で酒造りを行なっていく。主な受賞歴として、2019年、Kura Master日本酒コンクール純米大吟醸、金賞受賞。2019年、全国燗酒コンテスト純米酒、金賞受賞。2020年、ワイングラスでおいしい日本酒アワード純米酒、金賞受賞。