廣島スタイロ

アジタートの赤

SHAMROCK原田 美貴フローリストNo. 18

「花は美しい」――多くの人が口にするそんな言葉も、SHAMROCKの手に掛かると一味違った顔を見せる。SHAMROCKの花は妙に生々しい。SHAMROCKの花はやけになまめかしい。SHAMROCKの花はゾッとするほど猛々しい。つまりSHAMROCKの花は箱入り娘ではない。ギラギラした生命力を放つ、生きた花……。SHAMROCKの店主・原田美貴さんが生まれ育ち、反発し、愛した街・流川。生の清濁を吸い込んだ土壌に咲いた感性が、見たことのない花の見方を切り開いた。そう、だから「花は美しい」のだ、と――。

花は必死に生きている。私も、生きたから生きていく

私が生まれたのは流川。両親が飲食店をやってたので、流川で育ちました。花に興味を持ったのはハタチすぎ。たまたま花屋のアルバイトを見つけて、軽い気持ちではじめたらハマったんです。それまで花に興味があったわけでもなくて。ただ、「自分の店を持ちたい」という気持ちは中学の頃からありました。それは私が親の店を継ぐつもりがなかったから。「それに代わる何かを見つけないと」という気持ちはずっとあったんです。

花のどこに惹かれたのか……最初はデザイン的な面白さだったかもしれません。これまで遠目に見ていた花束やブーケを、自分が作ることで具体的な配列や配色を意識するようになって。あとは肌触りとか。でも一番惹き込まれたのは、花そのものかも。

花ってそれぞれの形が個性的じゃないですか。花がどうしてこういう形になったか考えていくと、どれも生きるために変化していったんですよね。種子を遠くに飛ばすために虫に見つけてもらったり、鳥に運ばれたり、風に運ばれたり。中には山火事で花粉を飛ばす子もいるし、食虫植物という形もある。それぞれの環境でどう生き残っていくか突き詰めた末の形態が今の形なんです。

そう考えると、何か救われません? すべてそこには意味があるんです。「かっこよく見られたい」とかそういう薄っぺらいものじゃなくて、命に関わるやりとりなんです。そういうことを知って、私自身が救われたというか。ハタチ頃の私は自分の存在に無意味さを感じていたけど、別に目標なんてなくていいんだな、と。花はただ必死に生きてて、きれいだとかいろんな評価は後から付いてくる。だから私も生きたから生きていく、それでいいじゃないかって――そこに気付いたときは武者震いしましたね。

広島で5年働いた後、外の世界が見たくて上京しました。気になる店を見て回り、気に入った店があったら募集があろうとなかろうと飛び込みました。それで南青山FUGAを経て、代官山のMatildaへ。FUGAは店の地下に器を置いたりする世界観が面白かったし、Matildaはディスプレイの色使いや空間の作り方がダントツでした。

Matildaではチーフデザイナーとして、さまざまなブランドの店内装飾やパーティ装飾を担当させてもらいました。すべてが新鮮で刺激的でしたね。先方のデザイナーからイメージを聞いて、「じゃあ、こういうのどうです?」と提案しながら一緒に空間を作るんです。印象的だったのはマリメッコのパーティ。マリメッコのテキスタイルを天井から吊り下げて、その下にガラスのシリンダーを並べてアマリリスを生けました。当時は20代で怖いもの知らず。広島ではできない経験をやみくもに求めてました。

通常の花屋の仕事とそうした店内装飾の仕事……花だけの構成と空間全体をデザインするという点は違うけど、私としては同じ感覚で臨んでます。普段の花の注文もお客様との打ち合わせから入って、「奥様はどんな方です?」「どんな服を着られます?」という話をしながら、「芯が強い人です」という答えが返ってきたら「じゃあ白とグリーンに挿し色で赤を入れましょうか」と組み立てていく。基本的にオーダーメードというか、私の仕事は注文主の要望を聞き出して、それを具現化することなんです。それはブランドのデザイナーとの作業も同じ。そう考えると私はアーティストじゃないんですよ。「私の表現を見て!」とは思わないし、それはできない。結局お客様に喜んでもらうことが一番なんです。

だからSHAMROCKも“花屋”なんだと思います。SHAMROCKをオープンしたのは2006年。29歳のとき東京での修行を終えて、流川に6坪の小さな花屋を開きました。そのときのコンセプトは「店のディスプレイが1枚の絵になること」。店がこの街のウィンドウになって、通りすがりの人が「きれい」と足を止めてくれるような店を目指しました。でも自信しかない状態ではじめたのに、店はまったく人気が出ませんでした。「あれ?」という状態が5年近く続きました。問屋の人からは「そんな玄人好みの店は続かない」なんて言われるし……そのとき私を支えていたのは「自分の店を潰したくない」の一心でしたね。

状況が好転したのは2011年、国泰寺に移転してから。そこは2階建ての庭付き物件で、知り合いが2階をギャラリーとして使いたいと言ってきたんです。それが私には面白くて。外の人が入ることで自分の作った空間に別の色が挿し込まれる。お店では音楽ライブも開催したけど、花を見に来た人がライブに来てくれたり、絵を見に来た人が花に興味を持ってくれたりすることも嬉しくて。私は根が飽き性なんで、そういうふうに環境が変化したり、人が混ざっていくことが好きなんです。

変化するという意味ではドライフラワーもすごく好きですね。国泰寺の店は“森”をテーマにして、2階はドライフラワーで鬱蒼とした雰囲気を作りました。ドライフラワーが面白いのは、アンティークやビンテージほどではないけど、花に時間軸という奥行きが加わるところ。色味の変化とかずっと見てても飽きないですよ。花は生花からドライになっていく過程の中で「今が最高!」っていう瞬間があって、そのときにしか出せない色気があるんです。ただ、その瞬間は自分が齢を重ねるごとに変わっていく。そういうのを見てると自分が齢をとることも怖くなくなるし、エイジングが持つ渋さは人間も植物も同じなんですよ。

私にとって大事な場所は流川です。自分が生まれ育った町であり、最初にアルバイトした花屋があり、SHAMROCKを開いた場所。流川に対しては複雑な想いがあります。決して美しい町ではないし、汚さも人間臭さもある。でもそこは私の故郷なんです。私の原点は美しいだけの場所じゃないんです。今も流川の入口に立つと「帰ってきたな」という気分になりますね。

流川に花を飾るとしたら……赤い花をバサッと飾りたいです。赤といってもシックな真紅ではなく、いやらしいような赤というか。発色のいいダリアとかガーネット。バラだったらファーストエディション。赤いダリアで「アジタート」っていう品種があるんですけど、アジタートは音楽用語で冷静さを保ちながら激情的に演奏するという意味なんです。その相反する姿勢も流川に合ってるような気がしますね。

花は……私にとって片想いの相手なのかもしれません。以前お客さんと話してたとき、「花、好きだね」「片想いなんです」「だから続くんだね」って話になって、すごくしっくりきたんです。どれだけやっても満足することがないから続けられる。たまにうまくいくことがあっても、なかなか長続きしなかったり……そのあたり、花の方が一枚上手なんですよ。

私は花に救ってもらったので、こういう人がひとりでも増えたらいいなと思います。街から魚屋さんがなくなったみたいに、何もしないと花屋もやがてなくなってしまう。特に日本には花を贈る風習がないので、花のよさを伝えていかないと。最近は冗談で“花の伝道師・SHAMROCK”って言ってますけど、それはあながち冗談でもなくて。まだまだ恩返しの途中。本当に、花を贈る男子がもっと増えると、日本も平和になるような気がするんですけどね。

取材後記

愛憎半ばする流川に生ける、燃えるようなアジタート――しびれる見立てを見せてくれた原田さん。国泰寺時代は“森”をテーマに店舗を作ったが、土橋に移った今のテーマは“博物館”。まるで博物館にいるように、花や植物、一点一点の個性を堪能できる品揃えとディスプレイを心掛けてるとか。ちなみにSHAMROCKという店名の由来は「SHAMROCKはキミドリ色の菊の品種名。日本だと菊は仏花と思われがちだけど、海外では普通に女性に贈るもの。固定概念に囚われるのではなく、花そのものの美しさを見てほしいという意味を込めて」。“美しさ”自体を問うフローリスト、こんな花屋がある広島は幸いですよ。まずは男子! 勇気を出して、花など贈ってみてはどう?

Profile 原田 美貴 広島市中区生まれ。流川で飲食店を営む家庭に育つ。1997年、生花店にアルバイトとして入り、花の面白さに開眼。日本フラワーデザイナー1級を取得し、生け花・草月流を学ぶ。ダニエル・オスト氏の装飾アシスタントとしてベルギーに渡り、生花の空間ディスプレイに感銘を受ける。25歳で上京。南青山FUGA、代官山Matildaに勤務。チーフデザイナーとしてカルティエ、フランク・ミュラー、スワロフスキー、シャネル、マリメッコなど数々のトップブランドの定期装花やパーティの装飾を担当する。2006年、広島に戻り、流川に花屋「SHAMROCK」オープン。2011年に国泰寺に移り、店内で音楽ライブや絵画展、写真展などをスタートする。2017年に土橋へと移転、現在に至る。