廣島スタイロ

色を持たない意味の黒

オリシゲシュウジグラフィックデザイナー ・ イラストレーターNo. 13

“食”を中心に広島の街で数々の祝祭を巻き起こした異業種集団「SUnDAYS」のメンバーとして活動。本業では素敵な店のショップカード、名刺、フライヤー、広島エフエムを筆頭とした音楽関連、いかしたイラストレーション……など気付けばさまざまな形で街を彩り、広島にスタイリッシュな眼福グラフィックを届けてきたオリシゲさん。常に黒一色で固めたクールなたたずまいの裏には、実は独自のデザイン哲学が隠されているようで。オリシゲさんの来し方行く末、そして原風景を一緒にたどってみました。

デザインはお客さんだけの色や形を見つけること

僕がデザインの道を志したのは、まだ店舗設計とかデザインという言葉も知らない高校生のとき。たまたま見てたテレビ番組でヨーロッパの路地裏にあるパブやレストランの鋳物看板を作る職人さんの特集をやってたんです。それに惹かれるものがあって。当時から絵を描くことは好きだったけど、手描きで年賀状を作る程度で、別に誰かに習うわけでもなく、美大を目指すわけでもなくて。穴吹デザイン専門学校に進んだのも、ただ“デザイン”って言葉に漠然とした夢を抱いたというか、なんとなく「デザインの道に進んだら、前にテレビで見たサイン看板を作れる人みたいになれるかも」という軽い気持ちで飛び込むことにしたんです。

穴吹を卒業してからは公共工事を中心にした土木設計の仕事に就きました。公園の植栽とか設計してましたね。だけどバブルが弾けて公共事業の予算が減って。それと同時に「この業界、お先真っ暗かも……」って空気が拡がっていって。それで「同じしんどいなら以前から気になってた広告やグラフィックデザインの世界に移ってイチから勉強し直した方がいいんじゃないか?」って思うようになって。それで24歳のとき、広告制作会社のデザイナーに転職したんです。

でもそこからが大変で……。僕はグラフィックの技術やノウハウを学んでないから、最初はイラストレーターやフォトショップの使い方すら知らなかったんです。それを仕事しながら学んでいって。だけどまわりはみんな年下だし、自分ができないことで周囲に迷惑はかけるし……最初の2年はかなりきつかったですね。会社辞めようと思ったことも何度もありました。それでも続けることでだんだん要領がつかめてきて、気付いたらどんよりした雲を突き抜けて晴れ間が広がるみたいに仕事ができるようになってたんです。仕事ができないときは「最初からグラフィックやってたらこんな苦労しなかったのに……」って後悔ばかりだったけど、余裕ができてからは、空間設計の経験があることでグラフィックの人があまり持ってない三次元の感覚が身に付いてることに気付いて。建築やインテリアをやってたことが、デザインやイラストを作る上で自分の財産になってたんです。

独立してフリーになったのは31歳のとき。それは自信があったというより、むしろ焦りがあったから。会社の仕事は似たような業務の繰り返しで、このまま続けても成長がないように思えたんです。その一方で会社が副業OKで、休日にできる範囲でデザインやイラストの仕事をやらせてもらって。そしたらそっちの方が楽しくなってきて。会社の仕事は営業の人や代理店が入るのでデザインを必要としてる人との間にどうしても距離ができるけど、フリーだとクライアントの意見が直接聞けて、ちゃんとその人の求めるものに近づけることができる。おまけに会社ではなく僕自身を必要としてくれるわけで。「早くそっち側に行きたい、行かなきゃ!」って気持ちがだんだん強くなってきたんです。

だから30代半ばではっきり自覚したのは、僕の一番の歓びはお客さんと一緒に楽しい仕事ができること。20代の頃は「仕事の中に常に自分の個性を加えたい」と思ってたけど、今は仕事で“自分の作品を作ってる”という感覚はほとんどありません。お客さんが喜んでくれることが一番だし、その上でできあがったデザインがこれまでにないものであればなおさらいい。

実際デザインを作る過程で一番嬉しいのは、お客さんと話をする中でその人にしかない色や形を見つけられたときなんです。僕の作業はデザインを“創る”“生み出す”のではなくて、そのお客さんだけの色や形を“見つける”ことなのかもしれませんね。そこには僕の個性や作風は介在してなくて、クライアントの内側にあるものが表に出てきただけって感覚なんです。

僕にとっての原風景……いま思い付くのは広島市現代美術館、ゲンビですね。ゲンビは穴吹の近くにあって、学生時代からよく来てました。課題とか学校に残ってやる人が多かったけど、僕は学校が終わったらゲンビに来て、広場やロビーで涼みながらアイデア帳を広げたりして。僕的にゲンビは自分の庭というか、ゆっくり考えられる場所なんです。学校から近いけど来てる生徒は意外と少ないし、平日とか驚くくらい人が少なかったりする。それでいて空間が広くて、緑もある。公共の空間だけど私物化してたというか。それって自分の気持ち次第でできることですからね。

ひとりになって考えごとをするためにも来てたけど、展示されてる作品にももちろん影響を受けました。印象に残ってるのは舞台美術とかやってたデヴィッド・ホックニーの「ホックニーのオペラ展」。僕の場合、ゲンビにはいつも「なにかしら新しいものに出会えたらいいな」という気持ちで足を運ぶんです。他人の作品を観ることで触発されて、ひとつでもふたつでも新しいアイデアが得られればいい。学生時代は優待券ももらえたし、卒業後も気になる企画展があれば観に来たし、フリーになってからは仕事として関わるようになり、ゲンビとはいろんな形でずっと付き合いが続いてますね。

そんな原風景に関連する色……僕、27歳のときに自分のテーマカラーを黒に決めたんです。そこからは着る服を全部黒にして、柄物やロゴの入った服を捨てて。だからまわりから“黒の人”という印象を持たれてるかもしれないけど、それって服だけの問題じゃなくて仕事にも通じることだと思うんです。

僕は仕事でいろんな色を扱うんで、僕自身は裏方的な黒がいいんです。僕はクライアントのために色を選ぶ人間なので、僕自身は色を持ちたくないし、できれば無色透明でいたい。色をリセットする黒でありたいんです。

言い方を変えれば、余白を引き立てるための黒というか……何もないキャンバスってまだ余白すらない状態で、そこに文字や絵柄などが存在して初めて、その周辺の空間が余白として重要になるんです。僕はその名もなき間を見つけたいし、そこを引き立てる存在でありたい。漆黒というか“失黒”の存在というか。

将来に関しては、僕はいま46ですけど、50歳以降は何か新しいことをはじめたいと思ってます。日々のクライアントワークとは別のライフワークがほしい。それが画業みたいなものになるのか、自分なりのブランドを立ち上げてそれを育てていく感じになるのか、具体的には見つかってないけど、そういうことができればいいなと思ってます。

取材後記

オリシゲさんのインスタグラムには美味しそうな料理の数々、ハイセンスなデザインワーク、仲間たちとのパーティタイム……お会いする前は突き抜けた“エピキュリアン=快楽主義者”を想像してたら、予想は気持ちよく裏切られました。謙虚で丁寧、そして穏やかな存在感。黒で固めたスタイリッシュないでたちにも、そんな理由があったんですね。こういう“黒子”がいてくれることで、街はずいぶん活気づくはず。ただ、オリシゲさんの場合、本人は黒子に徹しようとしても、あまりに人気がありすぎて表に担ぎ出されてしまう豊潤な“リッチブラック”だったりするんですけどね!

Profile オリシゲシュウジ 1973年、広島市安佐南区生まれ。サッカーに夢中な中学時代を経て沼田高校に入学。穴吹デザイン専門学校インテリアデザイン科を卒業した後、有限会社ユー環境デザインに入社し、道路や河川、公園の修景や土木設計に携わる。その後、株式会社日美に移り、紙媒体やウェブを中心とした広告制作を担当。2004年、31歳のときに独立し、以降フリーランスのグラフィックデザイナー、イラストレーターとして活躍する。2013~2016年にかけては、“食”を中心に広島の街の祝祭化を試みた「SUnDAYS」のメンバーとしても活動。日本グラフィックデザイナーズ協会(JAGDA)会員。